「当時、退職した先輩の⼈数が⽐較的少なかったんです」⽗、そして兄の背中を追うように⼟⽊課の⾼校に進んだ早崎。OBの就職先とその後を調べているうちに岸本建設に辿り着いた。同業他社と⽐べて低かった離職率に魅⼒を感じたからだ。
「働きやすい環境が整っている。ここなら仕事に夢中になれる」故郷の熊本から500キロ離れた⼤阪へ。その決断に迷いはなかった。
1年目
「架線」「列車防護装置」「ウィンドロー」。何を言っているのか分かりませんよね。
トンネル工事から鉄道工事に異動してきた当初の僕もそうでした。
飛び交う専門用語を覚えるのに必死でした。
それと同時に作業も覚えなければいけないので1年目は本当に大変でしたね…。
ただ、職人さんが現場や飲み会の場でフレンドリーにコミュニケーションをとってくれて、分からないことは気軽に聞ける環境をつくってくれたので、鉄道工事に慣れるまでめげずに続けることができました。
今では分からない専門用語はない…はずです(笑)
3年目
高校時代は野球部でキャッチャーでした。
あ、関係のない話をしたいわけではありませんよ。キャッチャーは試合の流れを見ながらチームに指示を送り、勝利に導くのが仕事です。
これ、鉄道工事の現場監督にそっくりなんです。土砂や岩石を掘り取る掘削(くっさく)の範囲の確定、骨組みをもとに行う図面の作成、電車や駅に電力を送る架線の取り付け、信号システムの整備。
それぞれの工程で計画を立て、職人さんに指示を送り、完成に近づけていく過程はキャッチャーそのもの。
思い通りに進んだときの達成感は試合に勝ったときのそれと似ています。
野球にはまっていた学生時代を思い出しながら、鉄道工事にはまっていった3年目でした。
5年目
担当部門の工事がついに竣工を迎えました。
鉄道工事は線路部門やプラットフォーム部門といったいくつかの部門に分かれていて、私は線路部門の担当でした。
最終年だった6年目には図面の制作から施工までほとんどの作業を自分の判断で行えるようになっていて、そのぶん重圧も、やりがいも、達成感もそれまでの何倍も大きく感じられるようになっていましたね。
私自身、一つの現場の完成を体験したのは初めてでした。もちろん感動はありましたが、同時に「やっと終わった」という安堵の気持ちも込み上げてきたのを覚えています。
ちなみに今はプラットフォーム部門の工事に携わっています。
ここが終われば、鉄道はついに完成です。